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安堵感スレイブ

幸福感・達成感・満足感だと思っていたものはどれも安堵感だった。

ダメだった。でも、ダメだった。とはいえ、ダメだった。

 

私は、昔病んでいた。

年単位で普通の活動ができない時期があった。

それにはあるコミュニティーが深く関係していた。

 

「原因がそれだった」とは今の私は言えない。

あの頃だって、感傷的に幼い私が「あのコミュニティーのせいで!」と叫ぶことはあったけれど、同時に「ゆうて自分のせいだ」と思う覚めた自分も同居していた。

 

ただ、その病んでた記憶があるコミュニティーに強く紐付いていることだけは確かだ。

今も、そのコミュニティーについて思い出すと、病んでいたあの頃が思い出される。

 

 

それが、その古傷が、私に再び刺激を与えた。

 

そのコミュニティーが多く集まる場に顔を出したからだ。

そして次の日、そのコミュニティーの人たちが私について良くないことを語っていたと知人を経由して耳にした。

 

 

久しぶりに堕ちた。昔の私が顔をもたげた。

 

どちらも覚悟の上のことだった。そのリスクを犯してまでやりたいことがあるから私は行動を起こした。その行動を彼らがよく思わないことまでよく分かっていた。

 

 

でも、たったそれだけのことで私は病み期に突入した。

 

 

 

ダメだった。

聞いた瞬間はそうでもなかったけど、徐々にパニックになった。見ないようにしたかった。でも、思考で感情を押さえつけたくなかった。私は前とは違う。私は変わった。私は変わる。だから、昔と同じことはしたくなかった。その感情から目をそらしたり、その感情に短絡的な理由付けをしてそれを叫んだり。そんなことはしたくなかった。

 

でも、ダメだった。

昔、頼っていた人に電話した。そして「そんなの気にしなくていい」って言葉をもらった。少し落ち着いた。「そのコミュニティーの人たちおかしいよ」って言葉をもらった。同意はできなかったけど、自分なりの見方をしていいんだって思えて少し落ち着いた。

 

とはいえ、ダメだった。

何も手に付かないし、何もしないでいることもできなかった。それでまずは、その時の気持ちをただ書き出した。感情と向き合いたかった。ツイートした。似たツイートを探してふぁぼった。引用リツイートした。私とちょっとズレた解釈をしているいろんなツイートに出会った。すると少し楽になった。

 

そして、寝た。

 

寝て。起きて。でも、何かやる気が起きなくて、意識を手放すってことに救いを見出してまた寝る。でも、起きちゃう。ついったーする。一通り見切ってしまう。感情に向き合うっていうことも疲れた。

 

 

そこで思った。

今、私の思考と感情のバランスが悪いとしても、だからといって思考をいきなり無視しようとするのはまた違うんじゃないか? これまで一応生きてこれたのは思考が回ったおかげ。空回りも多かったけど、いきなり変えるのはそれもそれでゼロイチ思考。慣れ親しんだやり方を、やったっていいじゃん。

 

 

結局、紛らすことにした。

アニメを見た。youtubeで動画をあさった。見ながら眠る。起きたらまた見る。また眠る。楽しさのためにというより紛らすために見た。そしたら鋭かった感情の波がだんだん緩やかになった。ここまでで丸一日くらい。

次の日は余裕が出てきて、『アルジャーノンに花束を』を読んだり、時間ができたら見ようと思っていた劇場版アニメを見た。映画館にも行った。ただ、終始ぼーっとしてはいた。

 

 

こうして私の久しぶりの予定のない2連休は終わった。

入りはここ数年で最悪だったけど、出はそこそこ良かった。

 

 

生きづらかったんだ。だから、感情を無視することにした。

 

行動記録表のを付けながらふいに思い出した。

そういえば、この2年は自分の感情を排除することばかり自分に癖づけていた。

感情と上手く付き合うとか、コントロールするとかでなく、行動や判断に感情を挟まないように習慣づけていた時期があった。

 

 

 

 

生きづらかったんだ。

あの人嫌い。あの人好き。そういうことを叫ぶ駄々っ子だった。それに付き合う自分が面倒だったし、仕事柄それは邪魔だった。

 

だから、感情を無視することにした。

 

 

人を嫌いと思うのは、人を好きと思うから。

好きか嫌いかって軸があるから。

 

そう思って、人を見る時に自分の感情を挟まないようにした。

 

 

すると、楽だった。

好きな人も嫌いな人もいない世界は楽だった。

いろんなことを考えなくて良くなった。

他人に反応しすぎることが少なくなって、感情の暴走が減った。

 

 

 

私には昔から、子供と大人が同居していた。

幼い自分がいろんなことを処理しきれずに叫ぶ。

それを客観的に見て、分析している自分がいた。

 

この頃は子供の自分が優位だった。それで生きづらいんだと私は思った。

だから、大人の自分が子供の教育しよう! と思った。

 

 

行動を重ねれば習慣は必ず変わる。

子供の自分がだだをこねても、なだめすかしてとにかく行動させた。

 

今思うと、この間に少しずつ少しずつ思考と感情のズレが重なっていたんだと思う。

どんどん自分の感情が見えなくなって、どんどん自分のことを考えるのが下手になって、どんどん納得感を得られなかった時の対処が下手になった。

 

事が起こったその瞬間に何も感じない。

無視することが当たり前だから。

そして相手の感情を見ている。

目の前から相手の感情がなくなって初めて自分の感情が目に入る。

そうしてやっと、自分のモヤモヤと向き合う。

 

 

そのときにやっと声を上げても、他人が私に寄り添ってくれる期間は終わっていた。

 

 

私、自分の感情が見えない

 

カウンセリングの最後に、宿題が出た。

「行動記録」を取るという宿題だった。

 

記入するのはシンプルな記録表で、縦軸は時間、横軸は日付があって1日ごとに2つの枠が当てられている。

そこに何時に何をしたかという「行動」とその時の「感情」を書き込んでくださいというものだった。

 

「最初は難しいと思うけどそのうち慣れます

 

先生はそう言ったけど、難しそうな気はしなかった。行動を記録したりするのは好きだったから。

 

 

その夜、まず記録表の行動欄を埋めることから始めた。そして、先生の言っていた注意ポイントを思い出す。

 

「その行動をしたときに考えていたことを思い浮かべてから感情を書いてください。行動から感情を連想してはダメです。まず行動を書いてください。その後、その時考えていたことを思い浮かべて、そこから感情を書いてください」

 

ほうほう。「行動→感情」じゃなくて、「 行動→考えていたこと→感情」ね。……ね。…………ん? え? 考えていたこと? 

うん、朝起きたときはね、はーって思ってた。つらたん。起きたくない。そう思ってた。だから……憂鬱かな。

で、友達とご飯食べたのは、楽しかった! じゃなくて、考えてたことをまず思い出さないと……あれ? 意外と……あれ。あれれ。結局、隙間隙間で仕事のこと考えてたみたい。どうやったら状況が好転するんだろうって。てことは、あれ。不安になっちゃう。きゃあ。

じゃ、帰ってブログを書いたのは……。今度こそ楽しいかなそれとも充実感? んと、考えていたことは……あれ? 集中だ。集中としかいえないぞ。書いてた内容の以外、何も考えてないぞ。てことは…………楽しい? でもちょっと違うんだよなー。達成感・満足感・充実感……ちょっと違う。空虚感が近いのかもしれない。

 

 

行動記録表の一角にある感情の例を見ながら、ひとつひとつ熟考してなんとか表を埋めきりました。

すんごいつかれた。ぜんぜん楽勝じゃなかった。

 

先生が「あなたは、自分の感情を無視し続けているんです」と言ったのはこういうことか。

 

私、自分の感情を見るってこと、知らなかったんだ。

 

 

 

しかも、日にちが経つごとにより難しさを感じた。

難しさが増したというより、「難しい!」って思いが日に日にクリア になっていった。

 

 

 

最初、行動記録表には、「憂鬱・不安・焦り・楽しい・嬉しい」しかなかった。

「モヤモヤ」を必死にその時考えていたことから分析して絞り出して、しっくりこないと思いつつ無理やり書いた。

 

それが、2日目には「緊張」と「空虚感」が増えた。

 

3日目には、「不満」が増え、「罪悪感」が増え、「怒り」が増えた。

 

4日目には「嫌悪感」。

 

6日目には「イライラ」と「不満」が増えた。

 

7日目には「疎外感」が増えた。

 

 

一つ一つ、世界の革新としかいえないような大発見だった。

 

 

すべて、行動記録表の右上に書いてある感情の例の中にある言葉。

毎日、自分の感情をその一つ一つに照らし合わせた。

初日はどの言葉にも反応しなかった。

それが、一つ一つ反応が増えていった。

 

ネガティブな感情ばかりなのがなんとも言えないけど、でも、自分の中に「モヤモヤ」っていうわけのわからないものばかりが渦巻いているって思っていた。靄がかかって何も分からなかった。どこにも踏み出せなかった。たまにやみくもにタックルするようにしてどこかに進んだけど、だいたい何にも当たらず何も改善せず地面にうずくまった。それだけ「モヤモヤ」だった。

 

それだけ濃かった霧が徐々に薄くなっていった。感情がちょっとずつ見えてきた。「モヤモヤ」っていうわけのわからないものではなくて、輪郭が見えるようになった。

 

それは大きすぎる変化だった。

希望を感じる変化だった。

 

奇病ではなくてよくある病気。そう思うと、気が晴れた。

 

続いてリストを見せられた。項目は十数個あって、一つを除いてすべてが当てはまった。この時も「少しでも当てはまったら」という条件付きだった。今になって思うけど、この「少しでも当てはまったら」がなければアダルトチルドレンの中には、たしかにちょっと当てはまるけどでもいつもそうってわけでもないし……と項目を挙げない人もいるからなんだろう。

 

・全か無かで考える。小さなミスですべてはもうダメだと捉える

・一般化しすぎ。1回良くないことがあるとそれが何度も繰り返されるように思う

・「〜すべき」「〜すべきでない」という考え方をする

・概ね良かったとしても、ちょっとでも良くないことがあればそれにこだわる

・相手の心の先々を読みすぎてしまう

・他人の成功や自分の失敗を重く捉え、自分の成功や他人の失敗を軽く捉える

・自分に関わりがないようなことでも、悪いことを自分のせいにしてしまう

 

これら自覚済みの考え方のパターンだった。少しずつ修正を試みていたものでもあった。ただ、それが私個人のダメなところではなく、アダルトチルドレンに共通する生きづらさだということが分かって、気が晴れた。

掛かった病気が奇病で全く同じ症例をもつ人がいないのよと言われるより、よくある病気なのよといわれた方が気がラクなのと同じだ。患者が多い病気なら研究が進んでいる。解決策がある。治療する側も慣れているだろう。そう思うと、気が晴れた。

 

「これは、考え方の癖を測るチェックリストです。これらは普通の人はしていないけどあなたはしている、あなたの癖。この癖に新たな癖を上書きして、バランス良く考えられるようになりましょう。次回から、あなたの問題を一緒に考えます。あなたの考え方はこうだけど、感情を見るってことをするとこういう考え方ができるよねって毎回一つずつ解いていきましょう。そうして今までとは違う考え方ができるようになりましょう。そうすると人が変わりますよ。具体的には自信が付きます」

 

この先生、合う。思考が強いタイプの扱いに慣れているからなのか、明確に話してくれる。私は次、何をすれば救われるのか、こんなにシンプルに示してくれた人はかつていなかった。下手な共感や感情にアプローチする言葉には辟易していたから、こうして論理の流れ美しく話してくれるのはとても安心だった。

 

さすが専門家といったところだろう。

ビジネス書を読んでいる気持ちだった。

 

初回のカウンセリングはこんなかんじで終わった。

 

それ、達成感や満足感じゃなくて、安堵感でしょ

 

そして、先生は普通の人の悩み方を教えてくれた。

先生はそのとき、裁判に例えて説明した。確か、最初は質問からだった。

 

「これをやろうと決めたことがあるとします。1週間後の日曜日にこの本を読もうとか。で、1週間後がやってきた。そしたら、この本読みたくないなと思った。そのとき、あなたは自分に何て声を掛けますか?」

 

「やるったらやる」

 

「その時の気持ちは横に置いといて、とにかく行動するってことですね。それは思考が強い考え方です。こうしなきゃ。こうすべきだ。こうしろ。論理的に正しいことを指摘します。裁判でいう検事役です。でも、検事役だけでは裁判は成り立たない。必ず弁護人がいるでしょう。それが感情です。しかし、今あなたは弁護人のいうことはすべて無視してる。検事役の言うことだけを聞いて裁判を行っている。そうするとどうなるか分かりますか? 裁判だったら。再審です。被告人は納得しないから、裁判の継続を願います。で、再び裁判が開かれる。でもやっぱり裁判官は検事役の言うことばかりを聞いて弁護役の言うことは受け付けない。そうすると、また被告人は納得しない。だからまた再審。いつまでも被告人は納得せずに再審を訴え続ける。あなたの悩みが問題になっているのはこれです。感情を無視しているから、感情はいつまでたってもこっち見て! って言うんです」

 

この間、私は「ほー!」「たしかに!」「ん〜〜〜っ」と反応していましたが、相槌ていど。ずっと先生のターンでした。

 

 

そしてまだ続く。

 

「そういう状態は達成感を感じにくい状態です」

 

ん? そう? いろいろチャレンジしてるし達成感はよく味わってると思うけど……

 

「達成感や満足感は得られにくい。安堵感しか得られないんです」

 

あ……………たしかに。つらっ。たしかにそうだよ。仕事で褒められて感じるの、達成感や満足感じゃないよ。安堵感だ。今まで錯覚してたよ。仕事で褒められても承認欲求満たされないよ確かに。満たされるのは、褒めるを上回って相手が感動してるなっていうのが伝わってきたときだけ。それを、私プロ意識高い! みたいに思ってたけど、違ったよ。いろいろ履き違えていただけだったよ。褒められた時に微妙な気持ちになるのは、安堵感と達成感&満足感の狭間だったからだよ。気持ちのラベル付間違ってるからだよ! あーーー、これ書いてるのが恥ずかしい。。

 

「繰り返しますが、あなたは今、思考が強すぎて感情を隠そうとしてしまっている状態です。このバランスを取るようにしていきましょう。思考が強いのは悪いことではありません。強みでもあります。バランスを取ればいいだけのことなのです。そうすると、人が変わりますよ。思考と感情が相棒になるととても強いです。思考と感情がお互いをサポートしあい、信じられること。それを自信というのです」

 

 

部分否定は、救いだ。

先生の話が一段落した時、私はこう思った。

 

私全体は否定しなかった。私の家族も否定しなかった。私の偏っているところも否定しなかった。

ただ、悩みのルールだけを否定した。

 

先生は、清々しいほど明確な部分否定だった。

 

 

いっぱいいっぱいの中で根本的な解決策を求めていた私には、救いだった。

悩み方のルールを調整すれば、普通の人との決定的な溝を乗り越えることができるかもしれないと思った。

 

 

 

アスペに当てはまる?と思ってた特徴はアダルトチルドレンだった

 

先生は熱く語る中でこんなことも言っていた。

 

「子供の頃って子供は感情なんです。それを思い切り外に出す。それに対して親が明確なルールのもとで怒ったり怒らなかったりすることで、感情との向き合い方を学ぶ。幼少期は思考は自分の中にあるのではなくて親が思考なんです。でも、親が子供には理解できないルールで怒ったりすると、子供は不安なんです。行動が悪くて怒られているというふうには思えなくて、自分が悪いから怒られていると思うようになる。そうすると、とにかく怒られたくない。だから親の思考を予測しようとするんです。親の思考ばかりを見ようとする。そして、親の思考と自分の感情がぶつかることがあったら、怒られたくないから自分の感情は押し込める。それは仕方ないんです。子供だから。取れる選択肢は多くない。防衛本能が働いて、親の顔色を伺う。そうなっちゃうものなんです。それが、大人になっても残っていると、承認欲求が満たされません。あなたが取った行動がたとえ受け入れられたとしても、それはあなたのありのままではないから。顔色伺いをして自分ではなく他人のことを考えて取った行動を承認されても、それは安堵感でしかない。達成感や満足感は満たされません」

 

あーー。私は、アダルトチルドレンそのものなんだなと思った瞬間でした。

 

実は、私は自分がアスペルガー症候群ではないかと長らく疑っていました。そしてそれを伝えたわけでもないのに、親に「あなたって、発達障害なのよね」と言われたこともありました。

アスペかな? と思ったのは、以下のアスペの特徴に当てはまるから。

・あいまいなコミュニケーションが苦手

・大勢の中で浮いてしまう

・相手の気持ちを理解するのが苦手

・相手を傷つけてしまう

・集中力がある

 

しかし、この疑念も続く言葉で晴れるのです。スッキリした。

 

「あなたは、シンプルなルールを好むそうですが、それも幼少期の影響です。あなたはルールを知ることで正当化したいと思ってる。どのタイミングで親が怒るか分からないと常に不安だったから、何かしらの原則があると安心するんです」

 

はーーーーーっ!! まさにこれ。私はルールは基本守る。ただ、このルールはこういう条件下では破っても怒られないというサブルールが見つかったら途端にルールを守らなくなる。どちらも、保身のためだ。

 

「そして、人と上手く関係を作れないのも、普通の人とあなたのルールが違うからです。あなたが他人に差し出すあなたのありのまま、つまり感情は、その差し出し方が普通の人と違う。だから、普通の人はあなたのことが理解できない。だから人と上手くコミュニケーションが取れないのです」

 

おーーーーー。そう考えると、私アスペじゃないわ。まさしくアダルトチルドレンだわ。

 

家庭環境はきっかけです。原因はあなたの考え方のルールです。

 

問診が終わると、先生が語りだした。

キャラ微修正した? ってくらい、さっきまでは徹底した聞き役だったのが一転、語りだした。

 

 

語った内容を要約すると、私の部分否定だった。

つまり、「あなたの悩み方は間違っています」ということだった。

 

 

 

まず、「悩みがあること、それ自体は悪いことではありません。悩むことはいいことでも悪いことでもない」先生はそう言った。

 

 

でも、私は困っていた。

悩みが付きなくて眠れないことがあった。悩みがたくさん脳内展開されていて思考が浅くなっているような気分もあった。とにかく、私は悩んでいて、それで困っていた。

人より気にしすぎるから悩みがたくさん生まれるんだと思って、いろんなことを気にしないように気をつけていた。私、なんか腑に落ちてないな、なんかイヤだなと思っても、模範的な人ならこういう行動を取るだろうって理屈を見つけて、感情をその理屈に当てはめようとした。無理やり納得させようとした。

短期的には効果抜群で、初対面の人とは上手く付き合えるようになった。でも、中長期的な関係になるとダメだった。理性と気持ちの細かいズレが重なっていっぱいいっぱいになると泣いてしまった。その時には、何で泣いているのかも分からなかった。

こんなふうに、私は困っていた。

 

今思えば、感情が発するエラーを無視することに慣れすぎていた。そして、体調に目立って異変が表れるまで気付けなくなるほどにセンサーは摩耗していた。

しかも、涙が勝手に出る・身体が震える・呼吸が荒くなる・食べれないといった体調の目立った変化でさえ、自分で重要視できなかった。1日1食も食べれなくて1週間で3キロ減った時も休むという選択ができなかったほどだった。その直後に休むことを決めたのだが、それは何もないのにオフィスで涙が止まらなくなったからではなく、本当はその日にいつもならしない仕事のミスがいくつか重なったからだった。このままでは迷惑を掛けるーー扱いにくい上に仕事の質を担保できなくなったら、私ってここに居つづけられるのかな? って思ったからだった。「休みたい」ではなく「休まなきゃ」と思った。

 

 

この時の私の思考回路はこんなかんじだった。

「感情」を「論理」で押さえ込んでいた。で、押さえきれなくなったら溢れ出す。これがダムだとしたら恐ろしくて仕方がない。

 

 

そんな私の悩み方のルールを、先生は否定した。

「その悩み方になったことと、幼少期の家庭環境は関係しています。でも、それは原因ではない。きっかけだ。原因はあなたのそのルールにあります。原因はルールです。ルールだから、変えることができます」

 

先生、力説だった。